昭和五十六年五月九日 朝の御理解


御理解第八十一節「氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへ降りたらそれで安心じゃ。気を緩めると直ぐ後へ戻るぞ。」


 昨日は恒例の久留米支部の御大祭であのように盛大に奉仕する事が出来ました。だんだんおかげを頂いて、その中心になられる佐田さん一家というても佐田さん今は御婦人ね、の信心というものを年々そこに見るような気が致します。
 繁盛という事と人間と健康と足ろうておかげを受けていっておられる。まあちょっとした真善美に輝くような一つの風というものがだんだんこう備わっていっておられる。家にも身にもそういうふうなものを感じました。二人の娘さん達が縁につかれてそして、二人とも懐妊のおかげを頂いて、一人息子の恵介君は目出度く学院卒業して今年帰ってまいりました。お家の方は益々繁盛の一途を辿らせて頂いております。家の内外の上にもおかげを受けております。お道の信心をさせて頂く家庭がまあ佐田さんのようなおかげを頂いていったら金光教はもっともっとどんどん繁盛していくだろうという感じが致します。
 その事をお礼を申させて頂きながら今日の御理解を頂いたんですけれども、ならもうあれでよいかというと決してそうではない。
 まあ云うならば、今日の御理解で云うならば九里半の所へ登り詰めたという感じです。向こうへ降りたら安心じゃという事。人間ですからやはり緩みがきたり致します。油断をするとそこから後戻りをするというような事にもなりかねません。まあ云うならば、あれも叶うた、これも成就したという感じが佐田さん一家にありますね。皆さんも参拝されてそれを感じられるだろうと思います。いろんな意味に於いて、あればもう一つという所がない感じです。それのやはり一家が勢を揃えられたという事。揃えておられるという事。しかも一人息子の恵介君がお道の教師になると言うたら、それを本当に有り難しとして受けられた。まあ云うなら御夫婦であれだけのお店とあれだけの家を支えていって、云わば信心で支えていっておられるわけである。もう何もかにもが成就にみえる。
 そこで私が思わせて頂くのですけれども、これからが云うならば、合楽の世界だと思うですね。佐田さんのところでは。
 まあ云うならば、善導寺、勿体島、そして椛目、常持というおかげを頂いておられる。もうすぐそこに合楽、云うならば神様に喜んで頂くというか、安心して頂くというか、本当に合楽世界に住まわせて頂くそこに初めて神様がやれやれ安心という事になるのじゃないかと思うです。一家の上におかげを受けられた。どういう点、どういう所から見てもおかげを受けられた。この頃から妹さんの富美恵さんの方が先に懐妊のおかげを頂いた。それで少しまあ姉さんの方の所でもまあ焦り気味の感じがあった。健康とそれが相俟って先だってから懐妊のおかげを頂いた。私は昨日お母さんとあの二人の娘達が一緒に玉串を上げる時にああおかげを頂いたもんであるなあと思うんです。しかも一つもこう無理のない、いわゆるきざっぽさのない繁盛である。
 こりゃもう内外共にあそこへ行って、もうあそこの門の中に一歩足を踏み込んだ途端、皆さんそれを感じるだろうと思うです。おかげを頂かれたなあと。だからもっとこれが本当な意味に於いてのいよいよ誰が見ても、云わばお道の信心させてもらやこういう繁盛と、こうした円満なしかも喜び一家の実があげられるという事を一つの手本にされるようなおかげを受けられると言う事は、常持までの世界では私は危ないと思う。何時後戻りするやら分からない。これが合楽世界、云うならば本当に神様に安心してもらえる、喜んでもらえる、神様の願いである願いを分からせてもろうてその願いに応えられる信心が、これは又限りがない事ですけれども、そこに一家中の信心が進展していく。もう云うならば、そこにおかげを受けたという意味に於いては、もうこれ以上限りはないのですけれども、これ以上限りないおかげを頂いていく為には、神様と氏子との間に交流し合える世界、合楽の世界に住まわせてもらえる世界。昨日あちらでのお話しを皆さんに聞いて頂いたんですけれど、丁度私が御祈念の座に着いたらどこからか遠い所から鶏の鳴き声がする。時を告げる声である。しかも御祈念中何回も、まあこんな時外れのときにこけこっこでもなかろうと思うたんですけれども、それを思わせて頂いておったら、あの歌舞伎のお芝居の、にね、時今桔梗旗挙(ときはいまききょうのはたあげ)というお芝居があるんです。時は今、桔梗の旗あげと、それで私は本当に時は今という事について合楽で皆さんが合楽に御神縁を頂いた方たちがおかげを受ける。
 なら佐田さんのような一家は勢を揃えた信心をして、ならしかもあそこの場合はだんだん、だんだん成る程信心ちゃ有り難いなあというおかげになって、勿論家族勢を揃えた信心によってああいうおかげになっていってまあ、云うならば常持の世界に住んでおられるという感じである。
 だからこれからの信心というのがね、どういう事かと言うと、云うならばもう時は今、今をおいて時は無い。合楽理念の本気でのマスター、私は昨日ここで吉井の波田野さんがお届けをなさいますのに、もう日々私はあんなお届けを昨日初めて聞いたんですけれども、もう偉大なる御教えを日々頂いてという意味のですね、私は合楽の今皆さんに聞いて頂いておる教えというものは本当に或る意味に於いての前代未聞であり、かつて今迄聞いた事の無い宗教話であり、しかもそれは天地を包み回そうかという内容を持っておる信心であり、何時迄も佐田一家がこうやって繁盛しておれば、〇〇さん一家が助かっておれば、ただお商売が繁盛しておれば健康のおかげ頂いておりさえすればという信心からそういう尊い、云うならば御信心にその時期に縁を合楽に頂いて合楽理念がいよいよ血に肉になって、本当の意味に於いてのおかげを頂いただけではなくて合楽世界に住まわせて頂く、これから生み出されていくものは限りが無いという信心。そういうお届けを昨日させて頂く時に、ここで頂く事が“考える”と頂いたんです。
 考えるとはどういうこつじゃろうかと思ったらあの“考える葦”という言葉がありますね。何か西洋の人の言葉で、私は意味が分かりませんから昨日竹内先生に“考える葦”とはどういう事かと聞かせてもろうたら、人間という事だそうですね。人間は弱々しい、実際明日をも分からぬのが人間の世界であるけれども、その人間が得ておるものは考える事が出来るという事。これは他の動植物では出来ないだろうと思うです。
 人間だけが考えられるんだと、そしてあのテレビのあのう最後の所にあるあのロダンの作と言われる“考える人”というのがありますね。こう顎ん所に手をやってこう考え込んでおるあの彫刻しょうかねあれは。
 私共がね本気で合楽信心、云うなら合楽理念を本気で私は考えておるだろうか。考えたらどういう結論が出てくるだろうかと言うて、私は今度卒業して帰ってまいりました学院生の四名の先生方のレポートを一人一人見せて頂きましたが、本当に合楽の信心を合楽理念をこのようにして捉えておる。こりゃとても考えに考え一人一人が日頃頂く御教えを、云うならばまとめなければあんな素晴らしい文章にもならないと思う程しに見事にまとめてありました。
 皆さんも少し本気で考えて合楽理念というものがただ私共一身一家が助かる事の為だけにあるのではない。いよいよ云うなら世の為人の為というとありふれた言葉ですけれども、本気でそこに気付かせて頂く信心。そういう信心に目覚めた時に、私は九里半までのいうならば、おかげ頂いて十里の坂を乗り越えて、云うならば神様へ安心してここまでの心が進み信心が分かったら神様は安心して下さるという事だけになるのじゃないでしょうか。 勿論先ず、我が身におかげを受けてと仰せられるのですから、先ず我が身におかげを受けなければならんが自分がいよいよ深く広く分からせてもろうて、なら自分一家、家庭の上にも、それが本当お父さんあなたが言いなさる事が本当ですねと、本当におまえが言うことが本当、例は主人が信心するなら家内に、家内が信心するなら主人に子供達にもそれが浸透していくという信心。そこから云うならば、おかげの世界、そのおかげの世界に住んで云うならば合楽の世界、そこまで至った時に本当に喜んで頂く安心してもらえれれる、それには私共がまあ時は、昨日は私の部屋に鉄扇花の花が紫のいい花です。が入れてありました。だから時は今桔梗の旗挙げというその事から、“時は今鉄扇花”もう絶対に広がりに広がっていくという、固い間違いないというふうに鉄の扇というふうに頂いたんです。 云わば肝心要の事を今こそ体得しとかなければ、何時体得するか。私がいつまでも生きるという事じゃない。私がおる間それこそ昨日の御理解でしたかね、参って尋ねる所がなかったと、今ならば合楽でどういう難しい事でも私は分かるような気がする。
 なぜ合楽理念を身につけ一家の上にその合楽理念による助かりというものが今迄過去宗教で助かってきたという助かり方の内容が違うんだと。そういう所をよくよく考えた上にも考えて神様がどうして私共のような程度の信心にかくもおかげを下さるのであろうかという事だけでも考えたらいいんです。
 例えば佐田さん一家がです、本当におかげ頂いたもんじゃあるなあ、考えてみるともう一年一年こうやっておかげ頂いて俺たちの信心は大した事も出来んのに、どうしてこういう神様のおかげを下さるのだろうかねえと、もうこの事だけでもいよいよ考えていかれたら、もっと云うならもっとましな、もっと云うなら上りかけとるとがもうここでと後へひざるような事ではない。ぴちっとした何というかあのブレーキとでもいうかね、こう下り坂の時に何か木か石かこうやって車ん下に敷いとくとそれから下は下らんでしょう。そして一服してから又上る。ほうからかしとると後へ下がる。けどもそこへこうやって石か何かを挟んで上ると、どんな頂上でも極める事が云わば出来るようにもう限りない。そういう信心が出来た時に神様が安心して下さるのじゃないかと。
 一家一門が例えば栄えるというおかげを頂かきゃならん。栄えたその心で、云うならば喜びをもっていよいよどういうふうに信心をいよいよ高めていくか、進めていくかと、そこには私共の願いではない神様の願いだけがあるだけです。
 神の願いにいよいよ応えられる生き方が出来た時、又は神様が今度は氏子の願い以上のおかげというようなおかげにもなっていく事だと思うです。
 年々歳々佐田さんのお宅にまいりまして思う事、年々歳々そういう信心が進められて今日の御理解で言うならば、峠はすぐそこと、ここで一心発起されて、云うならば佐田一家が常持に安住して居るという世界から、云うならばあれも成就したこれも願いが叶うたという中にあって、なら成就した、それはあなたの願いが成就したのであって、神様の願いが成就したというのではない。限りない神様の願いが成就する事の為に私共が一心発起させて頂く時に、云わば本当の合楽世界顕現という事になるのじゃないでしょうか。それが広まっていくという事に、いよいよ光の輪がいよいよ広がっていくという所におかげを頂いていく。自分が中途半端な事では広がりません。自分自身が先ずはおかげを受けてその光を広げていくおかげを頂きたいと思いますね。 どうぞ。